芦田愛菜さんの信じること より

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“信じる”について芦田は
「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」
続けて
「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」

正論。16歳の発言にしては可愛げがないと思うけども正論。
見えなかったのではなく、「見ようとしなかった部分」なんだろうと。


信用とか現状の期待値が
最低限のボーダーを超えたものを自分が”信じた物”と置き換えてしまう。
「もっとできる子なのにね」と。
”それができなかった子”と
認識する、確定する、受け止める。
段階的に、自分の推しにこの作業を行ってしまうのは思考的に品質を下げるのと似ている。
芦田愛菜さんのコメントに代入するのであれば、

「私は心が揺らいでしまったのであなたを信じていない」と揚げ足取りな暴論が完成してしまう。
それはそれで怖いものである。女優と地下アイドル。環境も違う。


私の自己満足を得るためにお金を使うのと同時に、
投資に近い応援の要素を切り離してしまうからお金は最低限しか使わなくなるのかなと。
これに近い現象の「応援してる」とリプを飛ばすだけの客に価値があるかという問題はまたいつか。


地下アイドルを応援することは投資である。
嫌でも運営母体に投資しないと活動ができなくなるから。
投資したくなくなったら応援を止めればいい?
個人の芸能活動と地下アイドルの活動が全く別物であることが
わからない人がもしいたら
それは不幸なのだなあと思う。